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創業者 馬渕 晧について


社是「過去に感謝 現在に信頼 未来に希望」はこうして創られた

創業者 馬渕 晧

創業者 馬渕 晧

 創業者馬渕晧は1925年に漆戸家7人兄弟の3男として辰野町に生を受けました。
光の如く生き、八十三年を会社に捧げ、常に家族や人を大切にする人で、11歳には両親に死に別れ、青年期は物心ともに大変な苦労をしました。そのせいか若い時から「感謝の心が大事」、「我々は常に生かされている存在」、「愛とは、祈りとは」の意味を、ことあるたびに人に説きました。
 凛とした人生を生き抜き、経営理念を一寸の乱れも無く貫く求道者。会社の品格と社徳を重んじ、今日のマブチを創り上げた創業者の一念は、現在も脈々と受け継がれ、人こそ企業、社徳を重んじるスピリッツはマブチがある限り未来永劫光続けています。




熱心な技術肌

 新規開拓も含めて、営業に毎日歩いていた晧は、生まれながらの技術屋肌で、物事を徹底的に追及するタイプだったため、ラッピングエメリーやダイヤモンドペレットがレンズと接して、力学的にどう作用するか?使用方法は?工具の製造方法のポイントは?などを独自に解明し、熱心に説明して歩いた。その理論は、メーカーの営業マンにさえ、まったく太刀打ちできないと、舌を巻かせたほどでした。


経営者と合唱指揮者

指揮をする晧

指揮をする晧

 晧は戦前名古屋の合唱団に所属。郷里の辰野町に帰って昭和22年、秋祭りに合唱をと青年会の若者を集めて歌ったのが、町の合唱団の始まりでした。郷里に帰ってから40年、企業経営と合唱を両立させ続けました。
 「より良いもの、美しいものの追求という意味では、企業経営にも音楽にも通じるものがあり、そこに求められるのは人の和、声の和である」が持論で、たえず人の持つメンタリティーを大切に生きました。昭和34年の県合唱連盟の設立に当たり、県内の合唱界の一本化にも大きく尽力しました。


馬渕商店〜マブチ・エスアンドティーのあゆみ


馬渕商店の始まり

会社設立当初の馬渕家

会社設立当初の馬渕家

 太平洋戦争の最中に名古屋で暮らしていた馬渕一家は、空襲で家を焼きだされ、親戚を頼って信州へ疎開。終戦を迎え新円封鎖の憂き目に泣かされながらも、命があっただけでも儲けものとばかり、元気を出して暮らし始めた。
 貫三はサラリーマン時代に手がけていた家庭染料の販売を疎開企業という形で再開。娘の澄子は洋裁をして生計を助けていたが、家族を支えるだけの仕事としては心許なく、また戦後の新しい時代に何か相応しい事業をしたいという思いにも駆られ、頭を悩ませていた。




創業当時の馬渕 晧

創業当時の晧

 澄子と結婚し、馬淵家の養子となった晧は、お金に頓着しない学者タイプで、人間愛があれば何もいらないなどと本気でいうような人だったので(澄子談)、何かしなければと焦る澄子とマイペースで自分の説を曲げない晧は、口論に明け暮れて毎日を過ごしていた。
 そうこうしているさなかの1950(昭和25年)年ごろ、貫三の妻淑子のいとこが、信州で何か使えないかと、東京からひょっと荷物を送ってきた。砂のようなもの?・・・それがいったい何なのか、晧も澄子も最初は見当さえ付かなかったが、どうやらレンズを磨くための研磨材らしいということが分かると、その砂をきっかけに光学業界への道が開け、二人で馬渕商店と名をつけた小さな店を始めた。 


黎明の3丁目時代 馬渕商店in 馬渕家

創業当時の看板

創業当時の看板

 本町3丁目の自宅玄関の上には、「有限会社馬渕商店」という白地に墨痕鮮やかな二枚合わせの看板が堂々と掲げられた。しかし、その内情は、晧、澄子、貫三と淑子、中学生の泰太郎、小学生の貴子と務の7人家族の住まいに、会社が間借りしているようなもの。畳敷きの事務所に机一つ、応接セット一式。社用車のスパル360ccとリヤカーが一台ずつ。来客中でも、玄関からは「ただいま」と学校帰りの子供たちの声。近所の子供たちの足音。会社の面目などあったものではなかったが、社内は、洋々たる前途に胸膨らませて働く二人の、若々しい活気に満ちていた。


新しい若者の入社

 晧と澄子が商売を始めて10年がすぎたころ、ひとりの若者が馬渕商店の社員となった。岡谷のある商社に勤め、馬渕商店の営業担当をしていた渡辺熈(後の専務)は、一から自分を試したいと、この小さな会社に飛び込んできた。家族以外の人間が加わると、それまで家内事業的だった馬渕商店にも新しい空気がみなぎり、貫三も経理担当として、長年の商売で培った手腕を発揮。営業範囲も辰野町内から、伊那、岡谷へと広がりを見せていった。


販路拡大。国内そして海外へ

旧本社社屋(1982年竣工)

旧本社社屋(1982年竣工)

 1974年頃、オリンパスが会津若松市に工場を新設したのをうけて、たびたび会津まで出張することとなり、通り道の新潟や関東への足がかりとして栃木へ売り込みを開始。そこから東北各県での取引を開始、さらに全国へ展開していった。
 多方面で取引が活発化すると営業品目も増えて、いよいよ海外取引も始まるのである。坂本龍馬のように、世界を相手に貿易をしたいと固く心に誓って入社した泰太郎(現会長)にとって、それは夢への確実なステップでもあった。
 海外への第一歩は、73-74年頃に踏み出された。岡谷市にあるヤシカ(現京セラ岡谷工場)に出向いた際、金属研磨材「スキッド」のカタログを香港ヤシカ宛にと託してきたところ、製品が見たいと現地から連絡が入った。


円弧球芯型レンズ研磨機の完成  新しい時代の幕開け

円弧球芯型レンズ研磨機

円弧球芯型レンズ研磨機

 渡辺は原点に立ち返り、実際にレンズを研磨して優位性を示そうと思い、山際にあった工場を借りて改良に取り掛かった。ダライ盤と水道、電気があるだけの工場に、試作機を持ち込み、近所のレンズ工場から研磨に難儀しているレンズを分けてもらってみよう見真似で研磨を始めた。
 今でこそ単玉研磨についてはある程度解明されているものの、当時は多数個貼りが主流だったため、凸レンズにおいて満足のいく研磨結果を出すのは至難の技に思えた。しかし、ユーザーの喜ぶ笑顔を夢見て、格闘した日々は、やがて他で類を見ない球芯加圧型研磨機の完成という形で報われることとなった。


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